元化学専攻所属・名誉教授 松本 吉泰
この4月から豊田理化学研究所のフェローとしての生活が始まった。豊田という名前を冠しているので、他人はトヨタ自動車関連の研究をするところだろうと思うようだ。もちろん当研究所はトヨタ自動車工業を創業した豊田喜一郎氏により設立されたのでトヨタとの関係はおおありなのだが、「研究題目を限定せず自由研究」、「閑却されがちの学理も重視」するというモットーで運営されている公益財団法人である。そして、大学等の研究機関で研鑽を積んだシニア研究員が専任研究員(フェロー)として採用され、フェローは自分のやりたい研究を自ら独りで推進するというのがこの研究所のフェロー制度である。すなわち、フェローは一研究者として実験を企画、準備、測定、データ解析、そして論文作成までをすべて自らの手で行なう。
大学教員を含む研究者がグループリーダーとなると、学生の教育や論文作成指導の他に研究室の予算の獲得、所属する組織のアドミニストレーションの仕事、対外的には学会やさまざまな組織から依頼される仕事などをこなしていかねばならず、だんだんと実験室から遠ざかってしまう。私もその例にもれずもうかれこれ20年余り自らの手で実験することはなかった。
現場から遠ざかるにつれて悔しい思いをしたのは、実験現場での新しい発見を直接体験できないことだった。朝、研究室に来たときに昨夜実験をしていた学生達が「こんな結果が出ました」と面白い実験上の発見を伝えるメモを残してくれたことがあった。嬉しいようで物悲しかったのは、その現場に自分が居合せなかったことだ。
実験というのは細々とした段取りの積み重ねである。一研究者にもどったいまは新しい実験室のレイアウトから必要な部材や機器の選定・購入を自らしている。このような作業をしていると、30代で分子科学研究所に助教授として着任しときのことを思い出す。当該研究所では助教授でも独立した研究グループを持てるので、着任早々は実験室のデザイン、装置の設計、そしてその運用を独りで始めたものだった。もちろん、当時に比べたら年相応に視力が落ちたり、身体能力的にはいろんな不利な部分があったりする。しかし、多くの会議の合間の細切れの時間しかなかった大学での生活とくらべると、研究に費やするまとまった時間がとれるのは有り難い。
実験の醍醐味はまさに新しい知見をその場で体験できるということである。いくらすばらしい結果でも他人がやったことを後から聞いたのでは感激の度合いはまったく違う。というわけで、これから一研究者として実験の現場に身を置き、自ら実験をするというたいへんスリリングな科学の原点に返った生活を楽しもうと思っている。